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明治の能力主義 [坂の上の雲]

 「坂の上の雲」の「あとがき」より明治時代の2大組織、陸軍と海軍の組織運用のキモを補足している。何か現在の今の組織にも通じる司馬遼太郎のメッセージを含んでいる。

 以下「坂の上の雲」第三巻(単行本版)のあとがきより

 明治は、日本人の中に能力主義が復活した時代であった。能力主義という、この狩猟民族だけに必要な価値判定の基準は、日本人の遠祖が騎馬民族であったかどうかは別にせよ、農耕主体のながい伝統のなかで眠らされてきた。途中、戦国の百年というのが、この遺伝体質をめざめさせた。そのなかでも極端に能力主義をとったのが織田軍団であり、その点の感覚のにぶい国々を征服した。能力主義の挫折は織田信長自身が自分の最期をもって証明したが、しかしかれがやった事業は、秀吉や光秀たちの能力伝説によって江戸期も語りつがれた。江戸期は、能力主義を大勢としては否定した時代で、否定することによって封建制というものは保たれ、日本人たちはふたたび農耕型の精神と生活にもどった。それが三百年近くつづき、明治になる。

 明治には非能力主義的な藩閥というものはあったが、しかし藩閥は能力主義的判定のもとにうまく人をつかった。明治日本というこの小さな国家は、能力主義でなければ衰滅するという危機感でささえられていた。

 ところで、陸海軍の首脳についての能力である。
 海軍を事実上一人で作ったといっていい山本権兵衛は、徹底した能力主義者であった。かれは藩閥に属しながら藩閥をも否定した。日露戦争の海軍は、山本がつくった第一級の軍艦群とかれの能力人事で旋回したといっていい。
 が、長州閥でにぎられていた陸軍は、この点でおなじ民族とはおもえないほどに能力主義からいえば鈍感であった。海軍のオーナーが山本であるとすれば、陸軍のそれは山県有朋にあたるであろう。山県が老齢すぎるとすれば、形式上のオーナーは陸軍大臣の寺内正毅がそれにあたる。
「君は重箱のすみをせせるような男だ」
と、同郷の児玉源太郎が寺内をそのようにからかったことがあるが、寺内のこの性癖は全陸軍に知られていた。この点は、おなじ長州人の乃木希典に酷似しているが、乃木とのちがいは、乃木は極端な精神主義で、寺内は偏執的なほどの規律好きという点にあり、いずれもリゴリズムという点ではかわりはない。あるいは長州人のいくつかの性格の型にこの種の系列があるのだろう。たれかの言葉に、精神主義と規律主義は無能者にとっての絶好の隠れ蓑である、ということがあるそうだが、寺内と乃木についてこの言葉で評し去ってしまうのは多少酷であろう。かれらは有能無能である以前に長州人であるがために栄進した。時の勢いが、かれらを栄進させた。栄進して将領になった以上、その職責相応の能力発揮が必要であったが、かれらはその点で欠けていた。欠けている部分について乃木は自閉的になった。みずから精神家たろうとした。乃木は少将に昇進してから人変わりしたように精神家になったのは、そういう自覚があったからであろう。乃木がみずからを閉じ込めたのに対し、寺内は他人を規律の中に閉じ込めようとした。


(途中略)

 寺内正毅は西南戦争で右腕に負傷し、このため軍隊指揮官はやったことがなく、教育と軍政畑ばかりにいた。陸軍大臣になってからなにかの用事で士官学校にやってきたことがあるが、校門に「陸軍士官学校」と陽刻さえた金文字の看板が青さびて光沢を失っているのを発見した。重大な発見であった。かれはすぐ校長の某中将を呼びつけ、大いに叱った。その叱責の論理は規律主義者が好んで用いる形式論理で、「この文字はおそれ多くも有栖川宮一品(ありすがわのみやいつほん)親王殿下のお手に成るものである」からはじまる。「しかるをなんぞや、この手入れを怠り、このように錆(さび)を生ぜしめ、ほとんど文字を識別しかねるまでに放置しているとは。まことに不敬の至りである。さらにひるがえって思えば本校は日本帝国の士官教育を代表すべき唯一の学校であるにもかかわらず、その扁額(へんがく)に錆を生ぜしめるとは、ひとり士官学校の不面目ならず、わが帝国陸軍の恥辱であり、帝国陸軍の恥辱であるということは、わが大日本帝国の国辱である」と、説諭した。この愚にもつかぬ形式論理はその後の帝国陸軍に遺伝相続され、帝国陸軍にあっては伍長にいたるまでこの種の論理を駆使して兵を叱責し、みずからの権威をうちたてる風習ができた。逆に考えれば寺内正毅という器(うつわ)にもっとも適した職は、伍長か軍曹がつとめる内務班長であったかもしれない。なぜならば、寺内陸相は日露戦争前後の陸軍オーナーでありながら、陸軍のためになにひとつ創造的なしなかったからである。

 これほど独創性のない人物が、明治三十三年、陸軍参謀本部次長というもっとも創造性を必要とする職についている。山県の長州閥人事によるものであり、日本陸軍が尖鋭能力主義思想をもっていなかったのはこのことでもわかるだろう。


(途中略)

 その寺内が、戦時陸軍大臣になった。陸軍大臣は作戦には直接の指揮権はなく、いわば補給役であった。ぼう大な事務処理をせねばならぬ部署であり、この点は寺内にとってはきわめて適職であった。この多忙な行政職にあっても、寺内は部下が書いてくる書類をすべて目を通し、もしその書類の文字が罫線(けいせん)からずれているのを発見すると、相手が佐官であろうが、大喝して叱った。
 その寺内が、べつに戦功というものはなかったが、大正六年、元帥府に列せられた。元帥とは陸海軍大将のうち「老巧卓抜なる物」がその府に列せられ、終身現役になる。大山巌、東郷平八郎がその例として考えればいいであろう。寺内正毅の元帥というのは明治国家の能力主義の一表現としてみるべきではなく、明治国家の頂点のある部分を占めていた陸軍長州閥の裏面政治の果実としてみたほうがよい。寺内は日露戦争の陸軍オーナーとしてどの程度の働きをしたのかについてはわれわれ後人としてはその痕跡をさがすのに苦しまねばならないが、その後の陸軍の人事に閥族主義の遺伝体質を残したという点では山県とともに十分あきらかであり、その意味で近代史のある部分の重要なかぎをにぎった人物であるといえる。




 以上であるが、現在でも精神主義を振り回す輩がたくさんいる。最近の事例でいえば、WBCの監督の座を狙った某氏は、オリンピックの惨敗責任もとらず、ぬけぬけと色気をみせていたが、イチロー選手の一言の発言で白紙にもどってしまったことを記憶している。
  能力がない輩ほど、精神主義を振り回すのである。これは古今東西の真理である。指導者層がこれを言い出したら気をつけよう。危ない兆候のあらわれだ。
 最近の経済界、政治もあるがスポーツの世界でもある。特に学校教育でのスポーツ界が一番あぶないか。


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