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戦略戦術思想 [坂の上の雲]

 戦う場面での基本中の基本のはなしである。「坂の上の雲」第三巻より引用する。筆者の特徴である「余談」からである。

 ちなみに、すぐれた戦略戦術というものはいわば算術程度のもので、素人が十分に理解できるような簡明さをもっている。逆にいえば玄人だけに理解できるような哲学じみた晦渋(かいじゅう)な戦略戦術はまれにしか存在しないし、まれに存在しても、それは敗北側のそれでしかない。
 たとえていえば、太平洋戦争を指導した日本陸軍の首脳部の戦略戦術思想がそれであろう。戦術の基本である算術性をうしない、世界史上まれにみる哲学性と神秘性を多分にもたせたもので、多分というよりむしろ、欠如している算術性の代用要素として哲学性を入れた。戦略的基盤や経済的基礎のうらづけのない「必勝の信念」の鼓吹や、「神州不滅」思想の宣伝、それに自殺戦術の賛美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学が、軍服をきた戦争指導者たちの基礎思想のようになってしまった。
 この奇妙さについては、この稿の目的ではない。ただ日露戦争当時の政戦略の最高指導者群は、三十数年後のその群れとは種族までちがうかとおもわれるほどに、合理主義的思想から一歩も踏み外していない。これは当時の四十歳以上の日本人の普遍的教養であった朱子学が多少の役割をはたしていたともいえるかもしれない。朱子学は合理主義の立場に立ち、極度に神秘性を排する思考法をもち、それが江戸中期から明治中期までの日本の知識人の骨髄にまでしみこんでいた。


(中略)

 戦術の要諦(ようてい)は、手練手管(てれんてくだ)ではない。日本人の古来の好みとして、小部隊をもって奇策縦横、大軍を翻弄撃破するといったところに戦術があるとし、そのような奇功のぬしを名将としてきた。源義経の鵯越(ひよどりごえ)の奇襲や楠木正成の千早城の籠城戦などが日本人ごのみの典型であるだろう。
 ところが織田信長やナポレオンがそうであるように、敵に倍する兵力と火力を予定戦場にあつめて敵を圧倒するということが戦術の大原則であり、名将というのはかぎられた兵力や火力をそのように主決戦場にあつめるという困難について、内や外に対しあらゆる駈引きをやり、いわば「大軍に兵法なし」といわれているように、戦いを運営してゆきさえすればいい。

 日本の江戸時代の史学者や庶民が楠木正成や義経を好んだために、その伝統がずっとつづき、昭和時代の軍事指導者までが専門家のくせに右の素人の好みに憑かれ、日本独特のふしぎな軍事思想をつくりあげ、当人たちもそれを信奉し、ついには対米戦をやってのけたが、日露戦争のころの軍事思想はその後のそれとはまったくちがっている。戦いの期間を通じてつねに兵力不足と砲弾不足になやみ悪戦苦闘をかさねたが、それでも概念としては敵と同数もしくはそれ以上であろうとした。海軍の場合は、敵よりも数量と質において凌駕(りょうが)しようとし、げんに凌駕した。


(中略)

 じつをいえば、この遼陽に展開しつつあるロシア軍に対し、日本軍は機敏な攻勢に出るべきであった。が、出ることができなかった。
 砲弾が足りなかったからである。
 海軍は、あまるぐらいの砲弾を準備してこの戦争に入った。
 が、陸軍はそうではなかった。
  「そんなに要るまい」  と、戦いの準備期間中からたかをくくっていた。かれらは近代戦における物量の消耗というこについての想像力がまったく欠けていた。
 この想像力の欠如は、この時代だけでなくかれらが太平洋戦争の終了によって消滅するまでのあいだ、日本陸軍の体質的欠陥というべきものであった。
 日本陸軍の伝統的迷信は、戦いは作戦と将志の勇敢さによって勝つということであった。このため参謀将校たちは開戦前から作戦計画に熱中した。詰め将棋を考えるようにして熱中し、遼陽作戦などは明治三十五年のころから参謀本部での「詰め将棋」になっていた。かれらは戦争と将棋とは似たようなものだと考える幣風(へいふう)があり、これは日本陸軍のつづくかぎりの遺伝になった。かれらはその「詰め将棋」に血をかよわせて生きた戦争にするのは、実戦部隊の決死の勇戦あるのみという単純な図式をもっていた。「詰め将棋」が予定どおりにうまく詰まないときは、第一線の実施部隊が臆病であり死をおそれるからだとして叱咤(しった)した。とめどもなく流血を強いた。
 それが、東京なり後方なりにいる陸軍の作戦首脳の共通してのあたまであった。「詰め将棋」を肉づけしてそれを現実に仕立て上げるものは血よりも物量であるということがわかりにくかった。たとえば日本陸軍は遼陽作戦をはじめるにあたって準備したのは砲弾ではなく、一万個の骨箱(ロシア側資料)であった。

 砲弾については、戦争準備中、
 「どれほどの砲弾の量を予定すべきか」
 ということを、参謀本部で考えた。もし、日清戦争の十倍が必要なら、それだけの量を外国に注文したり、大阪砲兵工廠の生産設備を拡充してそれだけの用意をせねばならない。
 が、日本陸軍は、
 「砲一門につき五十発(1ケ月単位)でいいだろう」
 という、驚嘆すべき計画をたてた。一日で消費すべき弾量だった。

   このおよそ近代戦についての想像力に欠けた計画をたてたのは、陸軍省の砲兵課長であった。日本人の通弊である専門家畏敬主義もしくは官僚制度のたてまえから、この案に対し、上司は信頼した。次官もそれに盲判(めくらばん)を押し、大臣も同様、判を押し、それが正式の陸軍省案になり、それを大本営が鵜のみにした。その結果、ぼう大な血の量がながされたが、官僚制度のふしぎさで、戦後たれひとりそれによる責任をとった者はない。


今回は以上であるが、最後の官僚制度の不思議さは今の官僚制度のありかたと何ら変わっていない。
「官僚亡国」という本があるのだが、戦争責任の一旦が官僚にあったが、誰もその責任をとらず、その組織の一部が戦後も存続していることを指摘した本である。

 「財政赤字だから増税だ」という議論があるが、誰が財政赤字にしたのか責任者追求もなく、同じ組織の官僚が増税だと叫ぶのは、何かおかしくないか。
 議論の基本中の基本とはこのことだ。


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