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3000人の村の堤防があの津波をはね返した 岩手県普代村の奇跡 [自然災害]

 悲惨な状況を招いたあの大津波であるが、想定外の大津波を受けながら、全く無傷だった三陸海岸沿いの村が岩手県にあるという。マスコミは避難にあった地域のみを報道しているが、この普代村のことはNHKをはじめとして、全く報じていない。筆者も日刊ゲンダイの記事でみた。この際全文を掲載する。そして、公共事業の意味と政治家、特に行政の長にあたるもの意識とはなにかを考えさせた記事であった。

 岩手県普代村の奇跡 
 これが公共事業だ    死者ゼロ、住宅の被害もなし

 高さは共に15.5メートル。東北一の「防潮堤と水門」が村を救った。岩手・三陸海岸の北部にある普代[ふだい]村。漁業が盛んな人口約3000人の村だが、11日午後3時半過ぎ、巨大な津波が襲いかかった。
 「高台から見ていましたが、津波がものすごい勢いで港に押し寄せ、漁船や加工工場を一気に飲み込みました。バリバリという激しい音がして、防潮堤に激突。みな祈るように見ていましたが、波は1㍍ほど乗り越えただけで、約1000世帯が住む集落までは来ませんでした」(普代村漁協・太田紀彦氏)
 津波が来る前に、港に船を見に行った男性が行く不明になっているが、防潮堤の内側にいた人の被害はゼロ。住宅への被害も一切なかった。高さ15.5㍍、全長130㍍の「防潮堤」が、村人の命を救ったのだ。村の北側には、同じ高さの水門(全長200㍍)があるが、こちらも川を勢いよく上がってきた津波をほぼはね返し、小学校を守ったという。
 普代村の隣、田野畑村(人口約4000人)には、高さ8㍍の防潮堤が2つあるが、津波を抑えられず、死者・行方不明者40人、全半壊533戸の被害が出ている。〝高さ15.5㍍〟の防御力は絶大だが、なぜ普代村に2つも造られたのか?
 「防潮堤は1970年に約6000万円(当時)をかけて造った。水門は35億円(同)で、84年に完成しました。普代村は1896年の明治三陸大津波で1010人の死者・行方不明者が出た。1933年の津波でも約600人が死傷しました。戦後、和村幸徳村長が
 『2度あることは3度あってはいかん』
と県にひたすらお願いし、建設の運びとなった。かなりの費用がかかるので、当時は『他のことに使えばいいのに』『ここまで高さは必要なの?』といった批判もたくさん受けましたよ(苦笑)。きっと今は天国でホットされているのではないでしょうか」(村役場住民課・三船雄三氏)

 村ではボロボロに壊れた漁港や養殖場の修復作業が進められているが、一方で、堤防に手を合わせたり、故・和村村長の墓に線香を供える人が絶えないという。


◆ 特報:岩手県普代村は浸水被害ゼロ、水門が効果を発揮
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