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戦略戦術思想 [坂の上の雲]

 戦う場面での基本中の基本のはなしである。「坂の上の雲」第三巻より引用する。筆者の特徴である「余談」からである。

 ちなみに、すぐれた戦略戦術というものはいわば算術程度のもので、素人が十分に理解できるような簡明さをもっている。逆にいえば玄人だけに理解できるような哲学じみた晦渋(かいじゅう)な戦略戦術はまれにしか存在しないし、まれに存在しても、それは敗北側のそれでしかない。
 たとえていえば、太平洋戦争を指導した日本陸軍の首脳部の戦略戦術思想がそれであろう。戦術の基本である算術性をうしない、世界史上まれにみる哲学性と神秘性を多分にもたせたもので、多分というよりむしろ、欠如している算術性の代用要素として哲学性を入れた。戦略的基盤や経済的基礎のうらづけのない「必勝の信念」の鼓吹や、「神州不滅」思想の宣伝、それに自殺戦術の賛美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学が、軍服をきた戦争指導者たちの基礎思想のようになってしまった。
 この奇妙さについては、この稿の目的ではない。ただ日露戦争当時の政戦略の最高指導者群は、三十数年後のその群れとは種族までちがうかとおもわれるほどに、合理主義的思想から一歩も踏み外していない。これは当時の四十歳以上の日本人の普遍的教養であった朱子学が多少の役割をはたしていたともいえるかもしれない。朱子学は合理主義の立場に立ち、極度に神秘性を排する思考法をもち、それが江戸中期から明治中期までの日本の知識人の骨髄にまでしみこんでいた。


(中略)

 戦術の要諦(ようてい)は、手練手管(てれんてくだ)ではない。日本人の古来の好みとして、小部隊をもって奇策縦横、大軍を翻弄撃破するといったところに戦術があるとし、そのような奇功のぬしを名将としてきた。源義経の鵯越(ひよどりごえ)の奇襲や楠木正成の千早城の籠城戦などが日本人ごのみの典型であるだろう。
 ところが織田信長やナポレオンがそうであるように、敵に倍する兵力と火力を予定戦場にあつめて敵を圧倒するということが戦術の大原則であり、名将というのはかぎられた兵力や火力をそのように主決戦場にあつめるという困難について、内や外に対しあらゆる駈引きをやり、いわば「大軍に兵法なし」といわれているように、戦いを運営してゆきさえすればいい。

 日本の江戸時代の史学者や庶民が楠木正成や義経を好んだために、その伝統がずっとつづき、昭和時代の軍事指導者までが専門家のくせに右の素人の好みに憑かれ、日本独特のふしぎな軍事思想をつくりあげ、当人たちもそれを信奉し、ついには対米戦をやってのけたが、日露戦争のころの軍事思想はその後のそれとはまったくちがっている。戦いの期間を通じてつねに兵力不足と砲弾不足になやみ悪戦苦闘をかさねたが、それでも概念としては敵と同数もしくはそれ以上であろうとした。海軍の場合は、敵よりも数量と質において凌駕(りょうが)しようとし、げんに凌駕した。


(中略)

 じつをいえば、この遼陽に展開しつつあるロシア軍に対し、日本軍は機敏な攻勢に出るべきであった。が、出ることができなかった。
 砲弾が足りなかったからである。
 海軍は、あまるぐらいの砲弾を準備してこの戦争に入った。
 が、陸軍はそうではなかった。
  「そんなに要るまい」  と、戦いの準備期間中からたかをくくっていた。かれらは近代戦における物量の消耗というこについての想像力がまったく欠けていた。
 この想像力の欠如は、この時代だけでなくかれらが太平洋戦争の終了によって消滅するまでのあいだ、日本陸軍の体質的欠陥というべきものであった。
 日本陸軍の伝統的迷信は、戦いは作戦と将志の勇敢さによって勝つということであった。このため参謀将校たちは開戦前から作戦計画に熱中した。詰め将棋を考えるようにして熱中し、遼陽作戦などは明治三十五年のころから参謀本部での「詰め将棋」になっていた。かれらは戦争と将棋とは似たようなものだと考える幣風(へいふう)があり、これは日本陸軍のつづくかぎりの遺伝になった。かれらはその「詰め将棋」に血をかよわせて生きた戦争にするのは、実戦部隊の決死の勇戦あるのみという単純な図式をもっていた。「詰め将棋」が予定どおりにうまく詰まないときは、第一線の実施部隊が臆病であり死をおそれるからだとして叱咤(しった)した。とめどもなく流血を強いた。
 それが、東京なり後方なりにいる陸軍の作戦首脳の共通してのあたまであった。「詰め将棋」を肉づけしてそれを現実に仕立て上げるものは血よりも物量であるということがわかりにくかった。たとえば日本陸軍は遼陽作戦をはじめるにあたって準備したのは砲弾ではなく、一万個の骨箱(ロシア側資料)であった。

 砲弾については、戦争準備中、
 「どれほどの砲弾の量を予定すべきか」
 ということを、参謀本部で考えた。もし、日清戦争の十倍が必要なら、それだけの量を外国に注文したり、大阪砲兵工廠の生産設備を拡充してそれだけの用意をせねばならない。
 が、日本陸軍は、
 「砲一門につき五十発(1ケ月単位)でいいだろう」
 という、驚嘆すべき計画をたてた。一日で消費すべき弾量だった。

   このおよそ近代戦についての想像力に欠けた計画をたてたのは、陸軍省の砲兵課長であった。日本人の通弊である専門家畏敬主義もしくは官僚制度のたてまえから、この案に対し、上司は信頼した。次官もそれに盲判(めくらばん)を押し、大臣も同様、判を押し、それが正式の陸軍省案になり、それを大本営が鵜のみにした。その結果、ぼう大な血の量がながされたが、官僚制度のふしぎさで、戦後たれひとりそれによる責任をとった者はない。


今回は以上であるが、最後の官僚制度の不思議さは今の官僚制度のありかたと何ら変わっていない。
「官僚亡国」という本があるのだが、戦争責任の一旦が官僚にあったが、誰もその責任をとらず、その組織の一部が戦後も存続していることを指摘した本である。

 「財政赤字だから増税だ」という議論があるが、誰が財政赤字にしたのか責任者追求もなく、同じ組織の官僚が増税だと叫ぶのは、何かおかしくないか。
 議論の基本中の基本とはこのことだ。


明治の能力主義 [坂の上の雲]

 「坂の上の雲」の「あとがき」より明治時代の2大組織、陸軍と海軍の組織運用のキモを補足している。何か現在の今の組織にも通じる司馬遼太郎のメッセージを含んでいる。

 以下「坂の上の雲」第三巻(単行本版)のあとがきより

 明治は、日本人の中に能力主義が復活した時代であった。能力主義という、この狩猟民族だけに必要な価値判定の基準は、日本人の遠祖が騎馬民族であったかどうかは別にせよ、農耕主体のながい伝統のなかで眠らされてきた。途中、戦国の百年というのが、この遺伝体質をめざめさせた。そのなかでも極端に能力主義をとったのが織田軍団であり、その点の感覚のにぶい国々を征服した。能力主義の挫折は織田信長自身が自分の最期をもって証明したが、しかしかれがやった事業は、秀吉や光秀たちの能力伝説によって江戸期も語りつがれた。江戸期は、能力主義を大勢としては否定した時代で、否定することによって封建制というものは保たれ、日本人たちはふたたび農耕型の精神と生活にもどった。それが三百年近くつづき、明治になる。

 明治には非能力主義的な藩閥というものはあったが、しかし藩閥は能力主義的判定のもとにうまく人をつかった。明治日本というこの小さな国家は、能力主義でなければ衰滅するという危機感でささえられていた。

 ところで、陸海軍の首脳についての能力である。
 海軍を事実上一人で作ったといっていい山本権兵衛は、徹底した能力主義者であった。かれは藩閥に属しながら藩閥をも否定した。日露戦争の海軍は、山本がつくった第一級の軍艦群とかれの能力人事で旋回したといっていい。
 が、長州閥でにぎられていた陸軍は、この点でおなじ民族とはおもえないほどに能力主義からいえば鈍感であった。海軍のオーナーが山本であるとすれば、陸軍のそれは山県有朋にあたるであろう。山県が老齢すぎるとすれば、形式上のオーナーは陸軍大臣の寺内正毅がそれにあたる。
「君は重箱のすみをせせるような男だ」
と、同郷の児玉源太郎が寺内をそのようにからかったことがあるが、寺内のこの性癖は全陸軍に知られていた。この点は、おなじ長州人の乃木希典に酷似しているが、乃木とのちがいは、乃木は極端な精神主義で、寺内は偏執的なほどの規律好きという点にあり、いずれもリゴリズムという点ではかわりはない。あるいは長州人のいくつかの性格の型にこの種の系列があるのだろう。たれかの言葉に、精神主義と規律主義は無能者にとっての絶好の隠れ蓑である、ということがあるそうだが、寺内と乃木についてこの言葉で評し去ってしまうのは多少酷であろう。かれらは有能無能である以前に長州人であるがために栄進した。時の勢いが、かれらを栄進させた。栄進して将領になった以上、その職責相応の能力発揮が必要であったが、かれらはその点で欠けていた。欠けている部分について乃木は自閉的になった。みずから精神家たろうとした。乃木は少将に昇進してから人変わりしたように精神家になったのは、そういう自覚があったからであろう。乃木がみずからを閉じ込めたのに対し、寺内は他人を規律の中に閉じ込めようとした。


(途中略)

 寺内正毅は西南戦争で右腕に負傷し、このため軍隊指揮官はやったことがなく、教育と軍政畑ばかりにいた。陸軍大臣になってからなにかの用事で士官学校にやってきたことがあるが、校門に「陸軍士官学校」と陽刻さえた金文字の看板が青さびて光沢を失っているのを発見した。重大な発見であった。かれはすぐ校長の某中将を呼びつけ、大いに叱った。その叱責の論理は規律主義者が好んで用いる形式論理で、「この文字はおそれ多くも有栖川宮一品(ありすがわのみやいつほん)親王殿下のお手に成るものである」からはじまる。「しかるをなんぞや、この手入れを怠り、このように錆(さび)を生ぜしめ、ほとんど文字を識別しかねるまでに放置しているとは。まことに不敬の至りである。さらにひるがえって思えば本校は日本帝国の士官教育を代表すべき唯一の学校であるにもかかわらず、その扁額(へんがく)に錆を生ぜしめるとは、ひとり士官学校の不面目ならず、わが帝国陸軍の恥辱であり、帝国陸軍の恥辱であるということは、わが大日本帝国の国辱である」と、説諭した。この愚にもつかぬ形式論理はその後の帝国陸軍に遺伝相続され、帝国陸軍にあっては伍長にいたるまでこの種の論理を駆使して兵を叱責し、みずからの権威をうちたてる風習ができた。逆に考えれば寺内正毅という器(うつわ)にもっとも適した職は、伍長か軍曹がつとめる内務班長であったかもしれない。なぜならば、寺内陸相は日露戦争前後の陸軍オーナーでありながら、陸軍のためになにひとつ創造的なしなかったからである。

 これほど独創性のない人物が、明治三十三年、陸軍参謀本部次長というもっとも創造性を必要とする職についている。山県の長州閥人事によるものであり、日本陸軍が尖鋭能力主義思想をもっていなかったのはこのことでもわかるだろう。


(途中略)

 その寺内が、戦時陸軍大臣になった。陸軍大臣は作戦には直接の指揮権はなく、いわば補給役であった。ぼう大な事務処理をせねばならぬ部署であり、この点は寺内にとってはきわめて適職であった。この多忙な行政職にあっても、寺内は部下が書いてくる書類をすべて目を通し、もしその書類の文字が罫線(けいせん)からずれているのを発見すると、相手が佐官であろうが、大喝して叱った。
 その寺内が、べつに戦功というものはなかったが、大正六年、元帥府に列せられた。元帥とは陸海軍大将のうち「老巧卓抜なる物」がその府に列せられ、終身現役になる。大山巌、東郷平八郎がその例として考えればいいであろう。寺内正毅の元帥というのは明治国家の能力主義の一表現としてみるべきではなく、明治国家の頂点のある部分を占めていた陸軍長州閥の裏面政治の果実としてみたほうがよい。寺内は日露戦争の陸軍オーナーとしてどの程度の働きをしたのかについてはわれわれ後人としてはその痕跡をさがすのに苦しまねばならないが、その後の陸軍の人事に閥族主義の遺伝体質を残したという点では山県とともに十分あきらかであり、その意味で近代史のある部分の重要なかぎをにぎった人物であるといえる。




 以上であるが、現在でも精神主義を振り回す輩がたくさんいる。最近の事例でいえば、WBCの監督の座を狙った某氏は、オリンピックの惨敗責任もとらず、ぬけぬけと色気をみせていたが、イチロー選手の一言の発言で白紙にもどってしまったことを記憶している。
  能力がない輩ほど、精神主義を振り回すのである。これは古今東西の真理である。指導者層がこれを言い出したら気をつけよう。危ない兆候のあらわれだ。
 最近の経済界、政治もあるがスポーツの世界でもある。特に学校教育でのスポーツ界が一番あぶないか。


『坂の上の雲』秘話より [坂の上の雲]

 小説、テレビドラマと話のあらすじはすでの広く知れわっており、ここであえて説明するつもりはない。興味があるのは、何故、あのような小説を司馬遼太郎が書き、世の中に問いただしたことである。

 彼の数多い講演会の中の「坂の上の雲」秘話をテーマにしたものがあり、そこから引用する。

何を聞いていいただこうかと考えていたのですが、やはり私が四十代に十年を費やして調べたり、書きました『坂の上の雲』という作品のこぼれ話を申し上げることにします。四十代というのはだいたい物がわかってきて、なお体力が残っている。おもしろい世代なんですけど、私の場合は『坂の上の雲』を調べるだけで終わりました。

・・・それにしても『坂の上の雲』は長大な作品で、しかもほんの最近の事件です。いい加減なことを書くわけにもいかないものですから、非常に神経を使って、ヘトヘトになりました。
 小説というのは本来フィクションなのですが、フィクションをいっさい禁じて書くことにしたのです。特に海軍や陸軍の配置はですね、何月何日何時にこの軍艦、あるいは部隊はここにいたということを間違って書いたら、なんにもなりません。
 もうひとつ困ったことがあります。
 私は速成教育でありますが、士官の教育を受けましたから、陸軍の戦術は少しわかりました。なんとか自分自身でやりました。たとえば旅順の攻撃のときだと、理想的な攻撃はこれで、実際の乃木さんの攻撃はこれだと、何枚も地図を書きつぶしました。
 しかし、海軍をよく知らない。あの軍艦の硬いタラップを踏んだときの感触を知っているかどうかで、ずいぶん違うものですね。
 そこで家庭教師を頼みました。
 正木生虎(いくとら)さんという、元海軍大佐です。もうお亡くなりになりましたが、大変な紳士でした。お父さんは日本海海戦に参加され、のちに中将になった方です。お父さんから息子へ、玄人が玄人に話を伝えてきたわけで、さぞかし話が正確に伝わっているだろうと考えたのです。正木さんは家庭教師になりましょう、海軍のことを教えましょうと言ってくれました。・・・

 ・・・しかし、それにしても軍人というのは難しい職業ですね。私は日本海海戦でスワロフが沈むまでがよき明治であって、それ以降の日本人は大きく変わったと思うのです。
 ロシアという大きな国に勝ったということで、国民がおかしくなってしまいました。世界の戦史で日露戦争ほど、いろいろな角度から見てうまくいった戦争はないかもしれません。うまくいった戦争という表現は変な表現ですが、要はそんなに戦争を上手に遂行した国でもおかしくなった。
 軍事というももは容易ならざるものです。孫子がいうように、やむを得ざるときには発動しなければなりませんが、同時に身を切るもとである。
 国家とは何か。そして軍事とは国家にとって何なのか。国家の中で鋭角的に、刃物のようになっているのが軍隊というものです。皆さんの職業は、世界史的にも、アジアの歴史からも、自分の歴史からもいろいろ考えられる職業です。これほど国家の運命を考えなくてはならない職業は、ほかに多くはありません。


※この講演は海上自衛隊幹部学校で行われたもの。

 また、別の講演会より、

・・戦争はときどき負けなければいけませんね。ヨーロッパの国々は、お互いに勝った負けたがあって成立している社会であり、文化なのです。
 常勝の国はありません。
 負けるたびに、民族としての思想が深くなったり、政治的に対する物の考え方が深くなったりする。
 勝ちっぱなしの国は、やはりおかしくなる。もし日露戦争に勝たなければ、その後の日本は困った事態になったでしょう。ところが、勝ったがために出てきた弊害も、非常に深刻なものがありました。
 例を挙げますと、日露戦争については陸軍に公式の戦史があります。参謀本部が編纂した戦史でして、『明治卅七八年日露戦史』という浩瀚(こうかん)なる、実に厚い本が何冊も続いているものですが、この戦史には一文の値打ちもありません。
 もともと勝った側の歴史は読んでもつまらないですね。自慢話ばかりですから、それに比べると、負けた側の歴史は参考になる。
 日露戦争の場合も、ロシア側の資料は非常に参考になりました。軍法会議も開かれました。いろいろな形で、なぜ負けたんだという無数の質問が、戦場の担当者を追求することになる。担当者は事情を説明したり、弁解したりする。こうして負けた側の歴史の実態がつかめます。
 しかし、勝った側の日本の参謀本部がつくった歴史はひどいものでした。
 昭和二十九年(1954)ぐらいに古本屋で買いましたが、たばこ1ダースぐらいの値段でした。
 古本屋は本の中身をよく知っています。中身の空疎な本は安い。『日露戦史』は、まことに空疎な本だったようです。
 ただ、私にとっては役立ちました。
 付図が非常にたくさんありまして、何月何日のある師団の状態、その翌日の状態といったふうに、ずっと地図がついていて、これは非常に値打ちがあるものだった。しかし、中身はほとんど価値がない。・・・・


※上記の講演は防衛大学校で行われたもの。

フィクションでない小説のため「『坂の上の雲』に隠された真実」なる本も出現している。「坂の上の雲」の誤りを正した本とあるが、まだ読んでいない。著者がどのような背景、スタンスの人物かが問題でまだ調べきっていない。教科書問題もそうであるが、ある勢力に都合の悪い事実は真実でないという曲解をねじ込む輩が必ずいる。残念ながら真実に対して謙虚な見方がどうしてもできない人たちである。太平洋戦争中にも海軍はミッドウェイ海戦の敗北を首相にも知らせなかった、という。何という戦争犯罪人たちか。

 同じようなことは、最近のアメリカとの核持ち込みの秘密協定の存在でも言える。事実をまげて国民にウソを言いつづけていた、政治家、官僚の責任追及をすべきである。1人の新聞記者はこの件のスクープを「情報漏洩」事件として、被告人とされ、人生を棒にふった人がいるのである。
 あふれかえる報道内容を鵜のみにせず、記事内容とタイミングを良く考えて、裏の背景をよく考えなければならない。
 最近の気になる記事、宮内庁長官の発言、米国大使の自作自演の基地移転問題に関する動き、そして鳩山首相のインドでの基地移転発言、なにか裏で糸を引いている勢力の動きを感じるのだが。それは、太平洋戦争でも国民をだまし、戦争に巻き込みながら、責任追及をのがれ、組織的に温存され生き延びた組織である。
 表だけの情報では、真実はわからない。


『坂の上の雲』とは [坂の上の雲]

 テレビドラマの一部が終了。話の筋は日露戦争前まで進んだ、このドラマの原作は、最初産経新聞紙上に連載され、書籍化された。現在は、文庫本8卷と単行本6卷組が販売されている。その単行本の場合には巻末に「あとがき」が記述されているのである。その中で、「坂の上の雲」の由来が書かれている。そこからの引用である。

・・この長い物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。最終的には、このつまり百姓国家がもったこっていなほど楽天的な連中が、ヨーロッパにおけるもっともふるい大国の一つと対決し、どのようにふるまったかということを書こうとおもっている。楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前のみを見つめながら歩く。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

 そしてその楽天家が生まれた背景を次のように説明している。

・・・いまからおもえばじつにこっけいなことに米と絹のほかに主要産業のないこの百姓国家の連中が、ヨーロッパ先進国とおなじ海軍をもとうとしたことである。陸軍も同様である。人口五千ほどの村が一流のプロ野球球団をもとうとするようなもので、財政のなりたつはずがない。
 が、そのようにしてともかくも近代国家をつくりあげようというのがもともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民たちの少年のような希望であった。少年どもは食うものも食わずに三十余年をすごしたが、はた目からみるこの悲惨さを、かれら少年たちはみずからの不幸としたかどうか。

・・・政府も小世帯であり、ここに登場する陸海軍もうそのように小さい。その町工場のように小さな国家のなかで、部分々々の義務と権能力をもたされたスタッフたちは世帯が小さいがために思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。この時代のあかるさは、こういう楽天主義(オプティミズム)からきているのであろう。


 なんともいい時代で、選後の高度経済成長期に似ているのかもしれない。最近この本を読み直してみると、以前は気がつかなかった印象に残る記述があるのである。それにしても、今読んでも面白いのは何故だろう。


坂の上の雲 主人公秋山兄弟のこと [坂の上の雲]

 ヤンキース松井選手の去就は、J・デーモンとの交渉結果に大きく影響を受ける、という状況に変化はない。少し変換してきていることは、GMがやっと松井選手のバックに日本の優良企業のジャパン・マネーが潜んでいることに気づき始めたことか。来年度のチーム年棒を今期の15%カットする方針でチーム編成をこなっているということは、収入面が今期は苦しかった、という証である。アメリカの経済不況はまだ深刻であるし、ヤンキースとのスポンサー契約を更新しない企業もたくさんあるはずである。この状況下で、安易に松井選手を手放すと同時に日本のスポンサーも契約解除となれば、営業的にみても大幅な減収となるはずである。スポンサーのひとつである読売新聞はこのことをはっきりと言明している。いよいよおもしろくなってきた。推移を見守りたい。

 さて、今回は「坂の上の雲」の話で、前回は主人公の一人正岡子規の隠れた一面を紹介した。あとの二人秋山兄弟である。この二人を「坂の上の雲」の「真之」の中で、以下のように表現している。

 明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級である旧士族しかなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。
 その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食い散らかしたことになるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の知恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえば、ひやりとするほどの奇蹟といっていい。
 その奇蹟の演出者たちは、数え方によっては数百万もおり、しぼれば数万人もいるであろう。しかし小説である以上、その代表者をえらばねばならない。
 その代表者を、顕官のなかからはえらばなかった。
 一組の兄弟にえらんだ。
 すでに登場しつつあるように、伊予松山のひと、秋山好古(よしふる)と秋山真之(さねゆき)である。この兄弟は、奇蹟を演じたひとびとのなかではもっとも演者たるにふさわしい。
 たとえば、こうである。ロシアと戦うにあたって、どうにも日本が敵しがたいものがロシア側に二つあった。一つはロシア陸軍において世界最強の騎兵といわれるコサック騎兵集団である。
 いまひとつはロシア海軍における主力艦隊であった。
 運命が、この兄弟にその責任を負わせた。兄の好古は、世界一脾弱な日本騎兵を率いざるをえなかった。騎兵はかれによって養成された。からは心魂をかたむけてコサックの研究をし、ついにそれを破る工夫を完成し、満州の野において悽惨(せいさん)きわまりない騎兵戦を蓮闘しつつかろうじて敵をやぶった。,
 弟の真之は海軍に入った。
「智謀湧くがごとし」といわれたこの人物は、少佐で日露戦争をむかえた。
 それ以前からかれはロシアの主力艦隊をやぶる工夫をかさね、その成案を得たとき、日本海軍はかれの能力を信頼し、東郷平八郎がひきいる連合艦隊の参謀にし、三笠に乗り組ませた。東郷の作戦はことごとくからが樹(た)てた。作戦だけでなく日本海海戦の序幕の名口上(めいこうじょう)ともいうべき、
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直(ただち)ニ出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」 
 という電文の起草者でもあった。
 この兄弟がいなければ日本がどうなっていたかわからないが、そのくせこの兄弟が、どちらも本来が軍人志願でなく、いかにも明治初年の日本的諸事情から世に出てゆくあたりに、いまのところ筆者はかぎりない関心をもっている。



 最初にここまで読んだときに、最後までこの物語を読もうと思った。この作品の特徴は、他の作品でも同じだが、話の展開の合間に、司馬遼太郎の歴史観がときどき顔をみせるのである。いわゆる司馬史観とよばれるものである。どちらかというと、この司馬史観が面白いのである。歴史教科書では得られない印象を与えてくれる説得力のある見解を教えてくれる。なるほど、この小説を書くにあたり神田の古本屋街からあらゆる関係書籍を買いあさったいう伝説が残されているくらの資料の裏付けをもとに書かれたようである。

 此の本を読むとなんとなく勇気づけられるのである。テレビドラマではどのくらい司馬史観を魅せてくれるのだろう。



野球と「坂の上の雲」 [坂の上の雲]

 「坂の上の雲」の主人公の一人、正岡子規は野球用語の日本語の用語化に貢献した一人であり、その功績をもって2002年に日本野球殿堂入りを果たしている。

 子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、明治22年(1889年)に喀血してやめるまでやっていた。ポジションは捕手であった。

 ベースボールを「野球」と訳したのは、中馬庚(ちゅうまん・かなえ)であるが、表記上の野球を「のぼーる」と呼び、本名昇にかけて「野球」と表記していたのは、中馬庚がベースボールを野球と訳す4年前だそうである。
 正岡子規が訳出した用語は、「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などで、それぞれを「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」と日本語に訳したののである。

 司馬遼太郎は「坂の上の雲」の第一巻の中で、子規の野球事情を次のように表現している。引用する。

 人一倍疲れやすいからだをもっていながら明治二十年ごろからベースボールに熱中し、
仲間を組んでほうぼうで試合をしたりした。ちなみにベースボールに
「野球」
 という日本語をあたえたのはかれであった、と河東碧梧桐などはのちしきりに書いているが、そうでなく
子規と一高の同窓の中馬庚(ちゅうまん・かなえ)だったといわれている。いずれにせよ、子規はこの喀血
後十日程して様子がよくなるともう寄宿舎の門前の路上で球を投げたりした。球は硬球であり、この当時
はミットもグローブもなく、素手でうけた。ぴしゃっと素手が鳴って球をうけると、掌が染めたように赤くなった。
そういう運動を重症状の病人がした。かといって療養についての知識があるほうだから、やはり天性の楽天
家なのかもしれない。

以上であるが、このあたりの事情は前回のテレビドラマの中でも紹介されていた。
「野球」という用語は、1894年にできたから、もうすでに115年たつ。
今の野球状況を正岡子規がみたら、なんとコメントするのだろう。興味はつきない。




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