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世界遺産 岩手県の「平泉」も審査へ 今晩にも吉報が届くか [トレンド]

世界遺産 岩手県の「平泉」も審査へ
日テレニュース24 2011年6月25日 11:58

 平泉という地名が、世界遺産への登録をめぐってマスコミを賑わしている。中尊寺とその周辺が対象地域らしい。個人的には、中尊寺は興味はないのだが、「平泉」という地名に反応してしまうのである。

 中尊寺は、奥州藤原氏三代の栄華を凝縮した建造物であるが、この藤原氏に関係する人物に、日本歴史上の英雄のひとり〝源義経〟がいる。その終焉地がこの近くであり、義経を偲ぶ義経堂、武蔵坊弁慶の墓を訪ねたことがある。由緒ある寺院内にはなく、弁慶の墓は、全くの普通の道端の空き地にあり、義経堂は、少し高い丘の上に小さな祠があるだけであった、と記憶している。あまりにも小さな祠に驚いたことを記憶している。

 義経は、平家を滅ぼした悲劇の英雄として語られているが、司馬遼太郎氏は違う見方で高い評価をしていた。「坂の上の雲」の中での義経の記述を要約しておく。

 第1巻の「騎兵」より
 真之は、まだよくのみこめない。
 兄の商売である騎兵というものが、であった。
「すると、源平合戦や戦国の合戦に出てくる騎馬武者というのは騎兵ではありゃせんのかな」
「ちがうな」
 好古はいった。
「あれは歩兵の将校が馬に乗っているというだけのことだ。騎兵ではない。本当の騎兵を日本史にもとめるとすれば」
 と、好古はいった。
「源義経とその軍隊だな」
 好古にいわせれば、源平のころから戦国にかけて日本の武士の精神と技術が大いに昂揚(こうよう)発達し、世界戦史の水準を抜くほどの合戦もいくつかみられるが、しかし乗馬部隊を集団としてもちいた武将は義経だけであった。
 日本の旧武士のありかたは、乗馬の武士がいくにんかの兵卒をしたがえて戦場に出る。そういう小単位の集まりをもって一軍をなし、それだけでいくさをする。
 それだけのことである。
--乗馬兵だけで一部隊を編成すればどうか。
 ということは、日本人は考えなかった。
 乗馬部隊の特質というのは、まずその機動性にあるであろう。(中略)
 ところが、その欠点もある。脆(もろ)さである。奇襲にしても事前に敵に発見されれば敵のもつあらゆる重軽火器がこの騎兵集団に向けられ、目標が大きいだけにばたばたとたおされてしまう。その長所と欠点をよくのみこんだ天才的な武将がこの騎兵を運用すれば大きな効果をあげることができるが、凡庸な大将ではそういう放れわざはとうていできない。
「騎兵の襲撃が成功した例は、西洋でもまれといっていい」
 と、好古はいった。
 義経が一ノ谷を小部隊の騎兵で襲撃して成功した。平家がまもる一ノ谷城(いまの神戸市)については、源範頼(のりより)の源氏本軍が平面から攻めていたが、義経は京都で騎兵団を編成し、ひそかに丹波篠山を迂回し、山路をとおって三草(みくさ)高原を越え、やがて鵯越(ひよどりごえ)へ出て一ノ谷に向かって逆落としの奇襲をかけた。また屋島襲撃も小部隊の騎兵をもってした。
 その後、この戦術はほろんだ。戦国のころ織田信長が桶狭間合戦においてこれを用いたのが唯一の例であり、以後、豊臣、徳川時代を通じてこの戦法はわすれられた。
「天才のみがやれる戦法だ」
 と、好古はいった。
 真之は、素直に感心した。
(この兄は天才かもしれない)
 と、ひそかに思った。

 以上が「騎兵」での描写であり、再び「馬」のなかでも義経の話題がでてくる。場面はフランス・サンシール士官学校で、老教官との会話の中に出てくる。

 老教官は、おそるべきことを言った。
--騎兵は無用の長物だ。
 という。
「古来、騎兵はその特性どおりにつかわれた例はきわめてまれである。中世以後、四人の天才だけが、この特性を意のままにひきだした」
 かれはその四人の名前をあげた。
  モンゴルのジンギス汗
  プロシャのフレデリック大王
  フランスのナポレオン一世
  プロシャの参謀総長モルトケ
 老教官にいわせると、騎兵は歩兵や砲兵とはちがい、純粋の奇襲兵種であり、よほど戦理を心得、よほど戦機を洞察し、しかもよほどの勇気をもった者でなければ、これはつかえない。
 集団としての騎兵は、攻撃の性能のみで、防御の力は皆無にちかい。これをあやまった戦理のもとにあやまった時期につかえば敵に損傷をあたえるどころか、騎兵じたいが全滅してしまう。
--むろん、それらのもろさは。
 と、老教官はいう。
「士官学校でも教え、陸軍大学校でも教える。教えられた将軍たちは、そのもろさについては十分知っている。知っているから、かれら無能な将軍たちはこの運用をおそれ、ついに最後まで手元に温存したまま使わない。騎兵がえてして、国費を食う無用の長物であると専門家からでさえいわれるのは、この使い手が天才でなければならないからだ。ところが天才は教育で製造できない」
(中略)
 好古には、老教官のいうことがよくわからない。
「つまり、私が」
 と、いった。天才でないとおっしゃるのか、というと、老教官かかぶりをふり、
「君が天才であろうとなかろうと、この場合たいしたことではない。たとえ君が天才であっても君は最高司令官に使われる騎兵であるにすぎない。要は君の使い手が天才であるかどうかということだ」
 といった。好古は、やっとわかった。
「居るかね、君の国にはそういう天才が」
「それは」
 好古は、苦笑し、それは軍事機密に属しますようで、といった。
「しかし、過去の例でいえば、先刻の四人しかいないというお説は訂正していただかねばなりませんな。先生の博学は有名ですが、日本のことはご存じない。世界に六人いるとおっしゃるべきでしょう」
「つまり日本人を二人加えろというのかね。たれとたれだ」
 好古は、源義経と織田信長の二人をあげ、義経の鵯越と屋島における戦法を説明し、織田信長については桶狭間合戦を語った。
 老教官はおどろき、何度もうなずき、以後六人ということにしよう、といった。
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